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2024年07月01日

「縄文ノート199 『縄文十柱』からの未来」の紹介

 はてなブログに「縄文ノート199 『縄文十柱』からの未来」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/
縄文社会論について各論を深めてきましたが、これまでの各氏の提案などをまとめ、「縄文文化・文明から未来への教訓」として「縄文十柱」を今回、まとめました。
 「@共生社会、A共同社会、B健康社会、C和平社会、D母系社会、E分住社、F美楽社会、G個性社会、H霊継社会、I幸福社会」の「縄文十柱」について、ご議論いただければ幸いです。
 葦原の沖積平野で「五百鍬」の鉄器水利水田稲作を全国に広め、新羅と米鉄交易を行い、妻問夫招婚により百余国を「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」と「米鉄交易」でまとめて建国したスサノオ・大国主7代からの「葦原中国=豊葦原水穂国」(古事記)、「委奴国(ふぃなのくに)」(金印)、「天鄙国(あまのひなのくに)」(霊帝・中常侍の李巡)と、そこから30国が乱を起こし、内部で「相攻伐」した後、卑弥呼(霊御子)を共立した邪馬台国連合について、私は1万数千年の「芋豆穀実・魚介食」の縄文海人族・山人族の文化文明の内発的発展・自立自主的発展であると考えています。
 本ブログの「邪馬台国論」としても、邪馬壹国など九州をはじめ全国各地の女王国が縄文1万数千年の母系制社会文化なのか、それとも「弥生人征服者」の文化なのか、卑弥呼(霊御子=霊巫女)の鬼道が「鬼=霊(ひ)=祖先霊」信仰なのか中国の「道教」なのか、水利水田稲作が縄文農耕(陸稲栽培、水辺稲作)の発展形なのか弥生人(中国人・朝鮮人)の征服により実現できたのか、卑弥呼など30国の女王・男王はスサノオ・大国主一族なのか弥生人征服王なのかなど、縄文文化・文明とスサノオ・大国主建国、卑弥呼の女王国の関係の探究が進み、卑弥呼墓の発見・発掘と世界遺産登録への取り組みへと続くことを期待したいと考えます。 雛元昌弘


縄文十柱.JPG
太陽の塔と4つの顔.JPG
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2024年06月27日

邪馬台国ノート58 「太陽を南から登らせる」邪馬台国畿内説

 昔むかしに流行ったエディット・ピアフ、越路吹雪の歌で有名な『愛の賛歌』のブレンダ・リーの英語歌詞の冒頭の「If the sun should tumble from the skies. If the sea should suddenly run dry. If you love me, really love me, let it happen I won't care.」(もし太陽が空から落ちても、もし海が突然干上がっても、もしあなたが私を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)を思い出します。
 邪馬台国畿内説や近年の邪馬台国吉備説、丹後説、四国説などをみていると、この歌と重なってくるのです。
 「If the sun should rize from the south. If the moon should set in the north. If you love kinaisetu, really love kinaisetu, let it happen I won't care.」(もし太陽が南から昇っても、もし太陽が北に沈んでも、もしあなたが畿内説を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)

 邪馬壹国がどこにあるのかは、魏書東夷伝倭人条の行程記録と、後漢・魏皇帝から与えられた金印、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅ りゅうもん てっきょう)、ガラス壁などの遺物、さらには記紀の記載や対応する地名、神社伝承などから決まります。ありふれた三角縁神獣鏡や纏向遺跡での各地の土器の集積、木製仮面、大量の桃の種、大型建物からは決ましません。これらは1〜3世紀の奈良盆地の開拓者、スサノオ・大国主一族の祭祀の痕跡の可能性が高いからです。―邪馬台国ノート「44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」「47 『神武東征』について―若御毛沼命の河内湖通過時期「48  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点」参照 
 問題は、魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)の行程記をどう読むかですが、不彌国から「南至投馬国水行二十日・・・」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の記載の、水行の起点を邪馬台国畿内説は不彌国からとし、放射状読み九州説は伊都国からとしています。
 私はその水行の起点は、九州本土に魏使が到達した末盧国の天然の良港(津)の呼子港からとし、正使は陸行し、副使は水行したと考えています。

図1・2 行程説(畿内説・放射状説).JPG
図3 正使陸行・副使水行説.JPG

















 倭人条を読んでみましょう。「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」(王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず)と書かれているのであり、津(天然の良港)から文書・賜遣物を伝送して女王に詣でているのです。
 「里程」でなく「日程」で示した「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の起点は、倭国本土の東松浦半島北端の「津」、末盧国の呼子港しかありえません。

図4 呼子港.JPG







 倭国の津から「伝送」したというのは魏の船荷を倭人の船に乗せ換えたのであり、瀬戸内海や日本海を「水行」したのであれば魏の大型船で安全・快適に航行でき、小さな和船で「伝送」する必要はありません。平底の和船に移し替えたのは、水深が浅く、干満差が大きい有明海から筑後川を遡る必要があったからです。
 そして「詣でる」とある以上、その伝送は倭人任せではなく副使が乗り、「太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝假倭王」(太守・弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、詔書・印綬を捧げて倭国へ行き、倭王に仮拝した)との記載からみても、「拝假(仮)倭王」(倭王の代理に拝した)のです。
「其地無牛馬」の記載からも、津からの「伝送」は水行しか考えられません。また、「自為王以來少有見者」(王となりて以来、見る者少し)、「唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處」(ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りする)ということからみて、副使は卑弥呼に拝したのではなく辞を伝える「男子一人」に拝したので「拝假(仮)倭王」と書いたのです。
 重要な点は、九州北岸で魏の竜骨船(V字底船)が風と波を避けて長期間停船でき水深が深く、直接接岸できる天然の良港は末盧国の呼子港しかなく、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月(水行十日=陸行一月)」の起点は呼子港以外にありえません。
「邪馬壹国博多湾岸説」の古田武彦さんやそれを受け継いだ推理小説家・高木彬光氏の「邪馬台国宇佐説」は、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月」の起点を帯方郡としましたが、「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露」の記載からみて、「水行」は倭国の「津」(呼子港)からしかありえません。また「自郡至女王國 萬二千餘里」と書き、帯方郡から末盧国までの「水行」を「里程」で書いている以上、わざわざ「水行二十日」「水行十日陸行一月」の「日程」表記で示す必要はありえません。末盧国の「津」から正使の「陸行里程」表記に対し、副使の伝送を「水行日程」で書き分けたのです。
さらに図3のように、「周旋可五千餘里」は正使陸行・副使水行(陸行里程・水行日程)で実際に「參問倭地」して「周旋」したことを示しているのです。
 個人的には古田さんにいろいろと教えられ、高砂市の「石の宝殿」(万葉集記載)やその北の加古川市の「天下原古墳」(播磨国風土記に記載)を案内したこともありましたが、この水行起点帯方郡説は文献分析にこだわった古田さんらしからぬ間違いと考えます。
 ここで畿内説に戻りたいと思いますが、なんとなんと「南至投馬国」「南至邪馬壹国」の「南」を「東」の書き間違いとしているのです。
畿内説を魏使になってタイムワープしてリアルに体験してみましょう。
 魏使の一行は不彌国で朝起き、東に向けて出航した時、太陽は正面から昇ったはずです。それを「南」としたというなら、太陽は「南」から昇ったことになります。投馬国までの「水行二十日」、邪馬壹国までの「水行十日陸行一月」の間、60日間、毎日、太陽が南から昇ったと魏使が体験していたというのが畿内トンデモ説なのです。
 これは瀬戸内航路説ですが、対馬暖流航路説(山陰航路説)はもっと奇妙です。丹後までは太陽は南から昇り、最後の丹後から大和までの「陸行一月」は太陽は東から昇ったことになります。
 いずれにしても、不彌国までは太陽は東から昇っていたのに、不彌国から先は南から昇り、さらに丹後からは東から昇るなど、「魏使方向音痴説」は冗談にもならない大嘘です。「科学」「専門家」など持ち出すまでもない、万人の「常識」問題です。
 邪馬台国畿内説、さらには吉備説、四国説(阿波説、讃岐説、高知説)、出雲説、丹後説の皆さんは、魏使は太陽が昇り、沈む方角もわからない方向音痴であるという明確な証明をしないかぎり、「倭人伝方位誤記説」を撤回すべきです。
 そして畿内説では、記紀に書かれた美和→大和(おおわ=大倭)の紀元1〜4世紀の稲作の普及と建国は大物主(スサノオ=大物主大神の御子の大年)・大国主一族であるいう歴史研究へと転換を図るべきです。 雛元昌弘  


□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ(〜115まで) http://blog.livedoor.jp/hohito/
 帆人の古代史メモ2(116〜) https://hohito2024.blog.jp/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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2024年06月23日

「縄文ノート197 『縄文アート論』メモ」の紹介

 はてなブログに「縄文ノート197 『縄文アート論』メモ」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/
 岡本太郎氏紹介の「火焔型土器」の強烈なインパクト、大阪万博の「太陽の塔」(生命の樹)と「黒い太陽」、「縄文に帰れ」「沖縄に本土が復帰するのだ」のメッセージ、猪風来氏の縄文野焼きイベント(2回目は金城実氏も参加)、仕事でよく通った群馬県片品村の金精様と砂糖ツメッコ、群馬県榛東村の耳飾り館、長野県・山梨県の妊娠土偶と女神像など、縄文文化との出合いを振り返りながら、「縄文アート」がどう現代に引き継がれているか、考え続けています。
太陽の塔の4つの顔.JPG縄文野焼きイベント2.JPG耳飾り館.JPG片品村の2つの行事.JPG女神土偶.JPG縄文土器の縁飾りデザイン.JPG














































 これまで邪馬台国論は、もっぱら4〜8世紀の天皇家の建国との解明という政治的な関心が高く、1〜3世紀のスサノオ・大国主建国との関係は探究されず、ましてや1万数千年の縄文文化・文明との繋がりなど関心外でしたが、妻問夫招婚の母系制社会と女王国・邪馬壹国の関係、縄文の真珠・ヒスイと壹与が後漢皇帝に貢いだ「白珠五千孔」「青大勾珠二枚」の関係、文身(刺青)と朱丹を体に塗る習慣の起源、「禾稲」の「禾(アワ)」栽培など、縄文文化・文明との邪馬壹国の宗教・文化の繋がりの解明を進め、人類史の中に位置づけ女王国の世界遺産登録を目指すことを期待したいと考えます。 雛元昌弘


□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/
 帆人の古代史メモ2         https://hohito2024.blog.jp/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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2024年06月13日

「スサノオ・大国主ノート157 温羅(うら)は『吉備王・占(うら)』」の紹介

 Gooブログに「スサノオ・大国主ノート157 温羅(うら)は『吉備王・占(うら)』」をアップしましたので紹介します。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 母の出身集落が兵庫県たつの市揖保川町の「浦部(町史では占部説)」であり、吉備津神社の「温羅(うら)」を祀る「御釜殿」の横で乳幼児期を過ごしていたという偶然の符合があり、さらに両親が一時入所していた海側のケアハウスの前の雛山(父の名字は雛元です)から「阿曽ピンク石」の石棺の蓋が発見され、温羅の妻が「阿曽姫」で各地の阿曽が製鉄地であったという符合から、「温羅=占」王であり製鉄王であった、ということなどをまとめました。
 また、すでに私は古出雲大社が2つの神名火山(神那霊山)を結ぶ聖線(レイライン=霊線)上に配置され、、大和・纏向の発生期の纏向型古墳群や大型建物、大国主を祭神とする穴師神社などが穴師山へ向かう聖線(参拝路)に添っており、箸墓古墳(私は大物主・百襲姫(ももそひめ:百曽姫)の夫婦墓説)もまた穴師山を向いていることを明らかにしてきましたが、吉備津神社にも宇賀神社(吉備国最古の稲荷神社)から、温羅を埋めた上に建てられた御釜殿、出雲の事代主を祀るえびす堂、スサノオの異母弟の建日方別(たけひかたわけ)を祀る岩山宮、環状石籬(かんじょうせきり:環状列石)などのある磐座(いわくら))を経て、神名火山(神那霊山)である吉備中山へ向かう聖線(参拝路)があることを明らかにしました。
 死者の霊(ひ=魂=玉し霊)が神名火山(神那霊山)から天に昇るというスサノオ・大国主・吉備一族の建国の痕跡と吉備国を奪った天皇家の歴史が吉備津神社の2つの聖線から浮かび上がるのです。
 本ブログの「邪馬台国論」としても、魏書東夷伝倭人条からの「邪馬台国吉備説」や「投馬国吉備説」が見られますが、その前に記紀に書かれたスサノオ・大国主7代の「葦原中国」「豊葦原水穂国」の中の大国である吉備国や播磨国についてまずは検討いただきたいと考えます。
なお、私はこの「葦原中国」こそ、倭人条に書かれた男王が7〜80年支配した「旧百余国」で、後漢皇帝から金印が与えられた「委奴国(ふぃなのくに)」であり、後漢・霊帝の中常侍(ちゅうじょうじ)・李巡が「倭国大乱」で30国(邪馬壹国連合)が分離・独立した時にこの国が「倭人、天鄙」に分かれていたことを書き残しており、分裂前の元々の「委奴国」は「天鄙(あまのひな)国」であったのです。
 邪馬台国論争はもっぱら天皇家との関係に関心がある方が多いのですが、その前にスサノオ・大国主7代の「葦原中国」(委奴国、天鄙国)との関係こそ、整理すべきと考えます。 雛元昌弘


□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ(〜115まで)     http://blog.livedoor.jp/hohito/
 帆人の古代史メモ2(116〜)     https://hohito2024.blog.jp/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

図1 温羅伝承地.JPG図2 阿蘇地名.JPG図3 たつの市の「阿曽」.JPG図4 阿蘇ピンク石の石棺.JPG図5 吉備津神社・御釜殿.JPG図6 吉備津神社の2つの聖線.JPG図7 吉備津神社の2つの聖線.JPG図8 金屋子神の移動.JPG図9 アフリカの鉄の道.JPG表1 鉄の起源・伝播説.JPG
posted by konanhina at 18:32| Comment(0) | 邪馬台国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月09日

57 始祖神は「天照(あまてる)」か「産霊(むすひ)夫婦神」か?

 邪馬台国畿内説の多くは「卑弥呼=百襲(ももそ)姫=アマテラス」説ですが、九州説では安本美典氏は「卑弥呼=日御子・日巫女=アマテラス」説、私は「卑弥呼=霊御子・霊巫女=アマテル」説です。―「邪馬台国ノート56 『アマテラス』から『アマテル』へ」参照
 アイヌの人たちは自分たちを「カムイ(自然神)」に対して「アイヌ=人間」と呼びました。これに対して、倭人は自分たちを霊(ひ)を受け継ぐ人間「霊人(ひと)」と呼んでいました。
 古事記序文は「二霊群品の祖」と書き、人々(群品)の始祖神を「産霊(むすひ)夫婦神」とし、出雲大社本殿の正面には「御客座五神」として天之御中主(あめのみなかぬし)の次に産霊夫婦神は祀られているのです。
 「客座」に祀られていることからみてこの5神は出雲土着の神ではなく、日本書紀一書(第三)がこの3神を「高天原に生まれた神」としていることからみて、そのルーツは壱岐・対馬の「海原(あまのはら)」の海人族と考えます。
 私たちの祖先は、子どもが親や祖父母に似るというDNAの働きを「霊(ひ)」が受け継がれると考え、死者の記憶がいつまでも残り夢にも現れることから、死者の肉体は土に帰ってもその霊(ひ:魂=玉し霊)は残り、自分たちを天から見守ってくれると想像したのです。
 この国の人々の始祖神を「産霊夫婦神」とする神話は、その子どもたちを「産子(むすこ:息子)、産女(むすめ:娘)」「霊子(ひこ:彦、毘古)、霊女(ひめ:姫、媛、比売、毘売)、霊御子(ひみこ:霊巫女、霊皇女)」と呼ぶことから裏付けられます。

図1 産霊夫婦神と子どもたち.JPG







 天皇家建国説の皇国史観は、この国の人々の始祖神を「天照大御神」とし、「天照(アマテル)」を「アマテラス」と読ませ、「世界を照らす太陽神」としてアジア侵略の思想的支柱としてきましたが、古事記は人々を産む始祖神を産霊夫婦神とし、日本書紀一書(第三)もまた高天原の始祖神を古事記と同じ3神にしているのです。
 なお、古事記で太安万侶は本文では夫婦2神を「神産日(かみむすひ)・高御産日(たかみむすひ)」と書き、「日神(ひのかみ)」を始祖神として「天照大御神」につなぎ、天皇家を太陽神の一族のように書いていますが、序文では「三神造化の首(三神:天之御中主と産霊夫婦)」「二霊群品の祖」と書き、スサノオ・大国主一族の「霊神(ひのかみ)」一族の歴史をしっかりと書き伝えているのです。
 また別の場所では、太安万侶は醜い石長比売をニニギが選ばなかった呪いにより天皇等の「命不長」と書きながら、阿多天皇家3代目のウガヤフキアエズは「五百八十歳」生きたとし、1〜16代の天皇の年齢を倍にしているのですが、このようなミエミエの矛盾した記述は、巧妙に「スサノオ・大国主16代」の真実の歴史を伝え残す高度なテクニックなのです。
 歴史家たちはこのような古事記の矛盾した記述からこれらの神話は信用できないとしましたが、私は史聖・太安万侶は日本で最初の推理小説家・ミステリーライターであり、謎を解く手掛かりはきちんと書き記しており、彼らに任せるのではなく、ミステリー好きの皆さんに太安万侶の暗号に取り組んでいただきたいと考えています。
 推理力などなく、ただただ天皇を太陽神にしたくてたまらない新皇国史観の歴史家などは、その根拠として次の2説を主張しています。
 第1は、天皇家の皇位継承の「三種の神器」の鏡を、太陽のシンボルとする主張です。鏡を頭の上に掲げて人々を反射光で照らすイラストが描かれ、今も多くの神社では鏡を正面に祀ってこの説を広めています。
 すでに「154 『アマテラス』から『アマテル』へ」で述べたように、アマテルは「わが御魂」として祀るように命じて鏡を天下りを行うニニギに渡したのであり、鏡はアマテルの「霊(ひ)が宿る神器」なのです。「御魂」が宿る女王愛用の鏡はその死後、壊されて葬られたのです。
そもそも、肝心の銅鏡、さらには銅鐸、土器などに太陽など描かれておらず、天皇家も太陽を祀る儀式など行っていないのであり、太陽信仰は皇国史観の空想という以外にありません。
 また、アマテルの御霊が宿る鏡を、御間城入彦(ミマキイリヒコ:10代崇神天皇)が皇居に移したところ、民の半数以上がなくなるという恐ろしい祟りを受けたため崇神天皇は鏡を宮中から出し、祀るべき子孫を探して29か所も点々とした後に伊勢神宮に収めたのであり、天皇家はアマテルの子孫ではないことを示しています。
 第2は、アマテルが天岩屋戸に隠れた後、「高天原(たかまがはら)皆暗、葦原中国(あしはらのなかつくに)悉闇」となり、アマテルが岩屋戸から出ると「高天原及葦原中国、自得証明」と書かれていることから、アマテルを太陽神とする主張です。
 この場面を「皆既日食」とし、アマテル=卑弥呼説を唱える人も見られますが、ファンタジーを理解しない困った「タダモノ(唯物)史観」という以外にありません。
 1970年代、鶴田浩二の『傷だらけの人生』が団塊世代に受けましたが、「生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか」のセリフから「何から何まで真っ暗闇よ」の歌が始まります。だからといって、1970年に皆既日食があった、喜界カルデラ噴火や姶良カルデラ噴火のような破局的噴火があったなどと誰が考えるでしょうか?
 古事記によれば、アマテル3(襲名した3番目のアマテル)が亡くなり、同族たちは集まって金山の鉄をとって鉄鏡を作り、八尺の勾玉と五百玉の首飾りを作るなどし、アメノウズメは石棺の岩屋戸(上蓋)の上で裸体を見せて踊る復活儀式を行い、次の女王アマテル4への霊継(ひつぎ)儀式を行ったのであり、魏書東夷伝倭人条に書かれたように「喪十余日」で、参加した他人は「歌舞飲食」を行っていたのです。
 私は太安万侶は日本最初のファンタジー作家であり、アマテル1(スサノオの異母妹)、アマテル2(大国主の筑紫妻・鳥耳)、アマテル3(大霊留女=霊御子=卑弥呼)、アマテル4(壹与)を合体したアマテルを創作して天皇家の始祖とする高天原ファンタジーを書きながら、歴史家としては真実のスサノオ・大国主16代(出雲7代、筑紫鳥耳・大国主10代)の歴史をしっかりと書き伝えているのです。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(旧:神話探偵団)139 史聖・太安万侶の古事記からの建国史」(220729)参照 
 推理力も想像力も乏しい文献史家や、真っ暗闇の「物理現象」にしか興味のない考古学者などに頼ることなく、ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジーとして古事記を分析する若い「産子・産女」「霊人・霊子・霊女」たちの世代に期待したいと思います。

図2 古事記の2層構造・3表現.JPG







 なお、葬儀に携わる神人、神使の猿や犬を飼う猿飼・犬神人、死者を蘇らせて演じる能楽師・人形浄瑠璃師・歌舞伎役者たちは死者の霊(ひ)を祀る「霊人(ひにん)」として尊敬・畏怖されていましたが、「人(霊人)殺し」を職業としていて皇族・貴族たちから差別されていた武士階級の身代わりとして、皇族・貴族・百姓・町人から「非人(ひにん)」として差別される身分に落とされたと考えています。 雛元昌弘

 
□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ(〜115まで) http://blog.livedoor.jp/hohito/
 帆人の古代史メモ2(116〜) https://hohito2024.blog.jp/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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2024年06月07日

「縄文ノート195 縄文社会研究の方法論」の紹介

 はてなブログに「縄文ノート195 縄文社会研究の方法論」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/
 「縄文社会研究会」では1万数千年の縄文文化・文明(採集栽培・漁労狩猟・生活・家族・集団・技術・文化・宗教・言語)の全体像を明らかにし、たかだか2千年あまりの農耕・工業・戦争の文化文明の前に全世界に共通した文化・文明を明らかにし、持続的発展可能な平和な未来社会への参考にしようと取り組んできました。
 考古学は遺跡・遺物の「物」からの帰納法により「縄文社会」を推理する着実な方法ですが、当研究会では現代人さらには古代人の様々な活動から縄文人の活動へと仮説演繹的に「縄文社会」を推理してきました。
 「物」からというと科学的と思われがちですが、「発見物」からの推理という大きな限界があり、「未発見物」への推理を欠くことから、「新発見物」により容易にそれまでの定説がパアになる危険性があるのです。
 縄文社会の全体的・総合的な解明に向けては、この帰納法推理、演繹的推理の両方が欠かせず、「文献史学、古地理学、古気象学、考古学、民俗学、神話学、女性史学、東アジア学、人類学、言語学、アイヌ学・沖縄学を始めとする各地域学、各種産業技術史学等」(上田篤)に、「霊長類学、遺伝子学、生態学、民族学、食物・栄養学、建築学、社会学、芸術・芸能学、宗教学」(筆者)などを加えた総合的な取り組みが必要と考えます。
 ただ、そのためには専門家による取り組みの前に、現代人の生活・文化・文明の諸問題の中から人類のルーツに遡って「なぜだろう」と考える直感がまずは必要であり、市民的な研究活動が出発点になると考えます。
 このような私たちの身近な体験からの市民的研究を輪を広げるとともに、各分野の研究者との交流を行いながら、縄文社会の総合的な解明に取り組みたいと考えています。
 本ブログの「邪馬台国論」としても、遺跡・遺物の「物」からの帰納法により邪馬台国を推理する方法には落とし穴があることを自覚し、方位誤認などありえない航海者の経験則、V字型底の大型船が長期間停船可能な津(自然の港)の条件、古代王の在位年の統計的推定、現代に続く祖先霊信仰の宗教施設である神社の祭神(特に女神)や伝承、現代に続く祖先霊祭祀(太陽信仰など根づいていません)、各地のスサノオ・大国主一族の祭祀に見られる「葦原中国」の建国伝承などから、演繹的に邪馬壹国の王都の位置を検討する方法論の参考にしていただければ幸いです。 雛元昌弘


□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/
 帆人の古代史メモ2         https://hohito2024.blog.jp/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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2024年05月31日

56 「アマテラス」から「アマテル」へ

 卑弥呼について「日巫女」として太陽信仰の巫女とし、記紀の「天照大神」に結び付ける説が九州説(天照復活を皆既日食に結び付けるなど)、畿内説(大型建物が日の出方向を向いているなど)の両方に見られます。私は「産霊(むすひ)始祖神」や「委奴国王(スサノオ・大国主7代)」の祖先霊信仰を行う「霊御子=霊巫女」で、「卑弥呼=大霊留女(おおひるめ)=天照説」ですが、今回は「天照」をどう読むか、検討したいと思います。
 記紀に書かれた「天照大神」「天照大御神」の「天照」は、これまで「アマテラス」と読まれ、本居宣長は「世界を照らすアマテラス太陽神」とし、それを受け継いだ皇国史観は「アマテラス太陽神」神道をアジア侵略の大東亜戦争の思想的支柱としてきました。
 しかしながら、「天照」を「アマテラス」と読む証明には根拠がありません。
300万人(1/3は民間人)もの死者をだし、それをはるかに超える死者を中国人・アジア諸国民・米国人などに与えた日中戦争・太平洋戦争の真摯な反省にたつならば、皇国史観の「アマテラス」読みを使うべきではなく、私は「アマテル」と書いてきました。

 その第1の根拠は、記紀神話で始祖神とされる神皇産霊(かみむすひ)・高御産霊(たかみむすひ)の産霊(むすひ)夫婦の子孫とされる対馬の天日神命(あめのみたまのみこと)を祀る対馬市美津島町の神社が阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)と称していることです。
阿麻氐留神社.JPG







 記紀や皇国史観に同調した(せざるをえなかった)神社は、「霊(ひ)」を「日(ひ)」に、「海、海人(あま)」を「天(あま)」字に置き換えてきていますが、阿麻氐留神社は祭神を「天日神命」と漢字で表記しながら「あめのみたまのみこと」の読み名を残し、元々は「天(海)の御霊の巫女人」という女神であったことを秘かに伝えているのです。
 この産霊(むすひ)始祖神ゆかりの神社が阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)=天照神社なのですから、「天照」は記紀の始祖神神話と神社伝承に従い「アマテル」と読むべきなのです。
 第2の根拠は、天火明命(アメノホアカリノミコト)の別名「天照国照彦火明命」を祀る奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が「天照国照」を「アマテルクニテル」と読ませていることです。
鏡作坐天照御魂神社神社.JPG










 このホアカリ(火明)命は『古事記』『日本書紀(一書第6・第8)』ではアマテルの子の忍穂耳(オシホミミ)の子で、邇邇芸(ニニギ)の兄とし、『日本書紀』の本文などではニニギの子としていますが、播磨国風土記は大国主の子としています。
 ニニギの妻となる薩摩半島南西端の阿多のアタツヒメ(阿多都比売)の別名を、しまなみ海道の愛媛県今治市大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に祀られる大山津見神(大山祇神:イヤナミ・イヤナギの子)の娘の木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビ)とするなど、天皇家はスサノオ・大国主一族と血縁があるように見せかけており、ホアカリもまた大国主の御子と私は考えています。
 なお、この「天照国照彦火明命」を太陽神とする説が見られますが、その子孫の尾張氏・津守氏・海部(あまべ)氏が海人族であり、海部系の凡海(おおあま)氏に育てられた「大海人皇子(おおあまのおうじ)」が後に「天武(あまたける:てんむ)天皇」を名乗ることからみても、「天=海(あま)」であり「天照=海照(あまてる)」なのです。
 鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmには銅鐸の鋳型などがでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や牛頭天王=スサノオを祀る杵築神社(出雲大社の古名)があり、今里と鍵の集落では蛇巻き神事が行われるなど、この地は海蛇を神使とする大国主の子の火明命一族の「大倭=大和(おおわ)」への進出拠点と考えます。
 第3の根拠は、「天照大神」「天照大御神」の「天照」は尊称であり、日本書紀がその名前を「大日孁貴(おおひるめのむち)」としていることにあります。
 「ヒルメ」が「日留女」なのか「霊留女」なのかですが、古事記序文で太安万侶が始祖神を「二霊群品の祖」とし、日本書記が「神皇産霊(かみむすひ)・高御産霊(たかみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦としていることからみて、「ヒルメ=霊留女」であり、太陽神ではなく始祖王の霊(ひ:祖先霊)を受け継いで祭祀を行う女性、霊御子=霊巫女なのです。大日留女は「日神(ひのかみ)」太陽神を祀る巫女ではありません。
 第4の根拠は、古事記の天照大御神(大霊留米:おおひるめ)の天岩屋戸からの復活神事(実際には墳墓の上の石棺での後継女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して後継女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しており、鏡は頭上に飾って人々を照らす太陽のシンボルではないのです。
 さらにニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと古事記が書いていることからみても、鏡は女王の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。
 なお、「アマテルの御魂」とされる八咫鏡(やたのかがみ:咫(あた)は広げた親指と中指の長さの身体尺)は「三種の神器」として皇位継承のシンボルとされていますが、10代御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)はスサノオ(大物主大神)が持っていたヤマタノオロチ王の大刀と八咫鏡を大物主(代々襲名)から奪い、自らの宮中に移して祀ったところ、民の半数以上がなくなり、百姓は流離し、背く者があったという恐ろしい祟りを受けます。「崇神天皇」は神を崇拝した天皇とされてきましたが、祖先神を偽り「神に祟られた天皇」なのです。
 そこで奪った八咫鏡は宮中から出し、倭の笠縫邑から祀るべきアマテルの子孫を探して丹波、吉備、宇太、伊賀、淡海、近江、美濃、尾張、三河、遠江、桑名など29か所を転々とし、ようやくイヤナミ(伊邪那美)の子の和久産巣日(わくむすび)の子の豊宇気毘売(トヨウケビメ:豊受大神)を祀る伊勢の一族に草薙剣とともに祀らせます。
 この事実は、アマテルの御魂が宿る八咫鏡(やたのかがみ)は血の繋がった子孫に祀られないと祟るのであり、天皇家はアマテルの子孫、スサノオの同族ではないためその後も皇居に祖先の御霊として祀ることができず、明治まで伊勢神宮に参拝することもできなかったのです。
 この祖先の言い伝えを破り、アマテルの子孫の神として侵略戦争を繰り広げた明治・大正・昭和天皇は、300万人の民を殺すという恐ろしい祟りを招いたのでないでしょうか?(オカルトチックな話で恐縮ですが)
鏡作坐天照御魂神社の案内版.JPG
 









 鏡作坐天照御魂神社神社の案内板は、崇神天皇が「八咫鏡を皇居の内にお祀りするのは畏れ多い」として皇居から出したとしていますが、アマテルが「わが御魂として、吾が前を拝むように、いつき奉れ」と命じたとされる神器の八咫鏡は本来なら皇居の神棚に飾り、毎日、その子孫によって祀られなければならないものなのです。家の中に仏壇と大黒柱(大国柱=心柱)に添って神棚(仏教が入る前は祖先霊を祀っていました)を置くのと同じように、天皇家は本当にアマテルの子孫なら祖先霊アマテルを祀るべきなのです。
 それが出来なかった天皇家は、この鏡作の地で別の八咫鏡を作らせて宮中に納めさせたのであり、スサノオの韓鋤剣を刃こぼれさせたオロチの鉄の「草那藝之大刀(くさなぎのおおたち)」の代わりに銅剣の「草薙剣」(熱田神宮の御神体)に置き換えたのと同じことをしたのです。
 第5の根拠は、新井白石が「人」を「ヒ(霊)のとどまる所」で「霊人(ひと)」とし、角林文雄氏(ニュージーランド・マッセー大学東アジア学科講師)が「人・彦・姫・卑弥呼」は「日人・日子・日女・日御子」ではなく、「霊人・霊子・霊女・霊御子」であるとしたように、この国は「産霊夫婦」を始祖神とし、死ねば誰もが神として子孫などに祀られる八百万神の「霊(ひ)信仰の国」なのです。
アマテラスの原風景 (2).jpg

 そして、この人類のもっとも基本的な信仰である死者・祖先の霊を神(仏教では仏)として祀る宗教がわが国では縄文時代から今にいたるまで続いているのです。
 諏訪の神名火山(神那霊山)の蓼科山の女神は「ヒジン(霊神)様」と呼ばれ、縄文時代の阿久尻遺跡では環状列石の中央広場に置かれた石棒からの2列の石列が蓼科山を向いており、「山の神」=女神がやどる神名火山(神那霊山)信仰は縄文時代から現代に続いており、太陽信仰などどこにも根づいていません。「アマテラス太陽神」など皇国史観の幻であり、その迷信から覚めるべきです。
 なお、私は記紀に登場する「アマテル(天照)」は8世紀の創作ではなく、実在した4人の襲名アマテル(尊称を継承)を合体したものと考えています。記紀・新唐書・魏書東夷伝倭人条を総合的に分析すると、アマテル1は出雲生まれのスサノオの筑紫の異母妹、アマテル2はスサノオ7代目の大国主の筑紫妻の鳥耳、アマテル3は筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(大霊留女:霊御子=霊巫女)、アマテル4は壹与(卑弥呼の後継女王)になります。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)、『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)参照



□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ(〜115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/
 帆人の古代史メモ2(116〜)  https://hohito2024.blog.jp/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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2024年05月28日

「「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の再加筆修正」の紹介

 5月25日アップしました「はてなブログ:縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の最後の部分には、「起承転結」の肝心の「転」の部分が欠けており26日に加筆修正しましたが、「結」の部分も欠けていましたので再加筆修正しました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 急いだ拙い作業で失礼しましたが、以下、加筆部分をそのまま掲載いたします。

<5月26日の加筆修正点>
 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。
 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトのように太陽神のシンボルとして、頭上に掲げたのではありません。
 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

<5月28日の加筆修正点>
 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰は縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照
 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。
 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。
 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。
西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。


 本ブログの「邪馬台国論」としても、1万数千年の縄文文化・文明の根底にある「死ねば誰もが霊神(ひのかみ)」として祀られる母系制社会の女神信仰を受け継いだスサノオ・大国主一族の「八百万神信仰」があり、その延長上に卑弥呼(霊御子=霊巫女)の鬼神(祖先霊)信仰の邪馬壹国(やまのふぃのくに)があると位置づけ、卑弥呼王都と女王墓の発見・発掘を進め、世界遺産登録を目指すべきと考えます。
 それは、西アフリカ熱帯雨林で誕生し、世界に拡散した人類がかつては母系制社会の女神信仰であったことを見なおし、父系制社会の戦争・殺戮・略奪・女性奴隷化を終わらせるきっかけとなると期待しています。 雛元昌弘

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2024年05月26日

「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の紹介

はてなブログに「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/
 録画していた5月22日NHK・BSの新日本風土記「十津川村(とつかわむら)」(2019年1月初回放送)を見ましたが、杣師(そまし:きこり)が「けずり花」(男性のシンボル)をつくり、各家や山の大木の近くに宿る「山の神」に供える信仰や、山人(やまびと=やまと)の村の農業・食事・祭りなどたいへん興味深い番組でした。

十津川村.JPG

 私が注目したのは、「山の神」=女神に男性が「男根」に似せた「けずり花」(なんとも奥ゆかしいネーミングです)を供えるという点です。
 この十津川村の「けずり花」を女神「山の神」に捧げる祭りは、単なる自然信仰ではなく、死者の霊(ひ)が山から天にのぼるアフリカ起源で世界に広まった神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰、ピラミッド神殿、神籬(霊洩木)信仰)であり、縄文石棒やイナウ(アイヌ)、けずり花(十津川村)は霊(ひ)の再生を願って男性が母系制社会の女神に捧げる神器であり、女神の依り代でもあったのです。

 石棒等.JPG








 
 なお、「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」において、「私は幣帛(へいはく)・御幣(ごへい)とイナウは、御柱や神籬(ひもろぎ)のミニチュア説とともに、その形状(陰毛らしきものが垂れている)からみて、大地に突き立てる石棒(男根)を受け継いだものではないか、という仮説も考えていますが、今後の検討課題です」と書きましたが、幣帛(へいはく:大麻(おおぬさ))と御幣(ごへい)は神が宿る神籬(ひもろぎ:霊洩木)であり、石棒・イナウ・けずり花・金精とは神器としての役割が異なり、修正いたします。
 
神籬(霊洩木)・大幣(大麻)・御幣.JPG









 古事記によればアマテル(天照大御神)が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。
 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したとしているのであり、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトの太陽神のように、頭上に掲げたのではありません。
 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としており、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。
 本ブログの「邪馬台国論」としても、死ねば誰もが霊神(ひのかみ)として祀られる八百万神信仰の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝を縄文文化・文明論に遡って位置づけ、世界の母系制社会の解明と神山天神信仰の解明に役立てるべきと考えます。 
そして、古事記・日本書紀の神話を荒唐無稽な8世紀の創作と見るのではなく、歴史上の人物で死後に「神」と呼ばれたスサノオ・大国主一族の歴史として分析するところから、邪馬台国を位置付けるべきと考えます。
 古事記は単なる「歴史書(ドキュメンタリー)」ではなく、虚構の天皇家建国史の裏に真実のスサノオ・大国主一族の建国史を巧妙に書き記した「ミステリー」であり、真実の歴史を空想的な物語として表現した「ファンタジー」の3層構造からなっているのであり、史聖・太安万侶のこの高度に知的な作業に敬意を払うべきです。

図1 記紀神話の3層構造.JPG

 私が学生時代の1960年代中頃には「聖書は後世の創作」「キリストはいなかった」などの説が見られ、それを真似したのか「記紀神話は後世の創作」「スサノオ・大国主・アマテルなどは創作された人物」などの説がまかり通っていましたが、「化石頭」の学者たちに任せず、若いドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー好きの人たちによる、魏書東夷伝倭人条と古事記・日本書紀・風土記を統合した分析と卑弥呼王都と女王墓の発見・発掘を期待したいと思います。 雛元昌弘

□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/
 ヒナフキンの邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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2024年05月23日

「スサノオ・大国主ノート153 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』の修正点」の紹介

 Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に「153 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』の修正点」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 2009年3月に『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) ―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出版後、私は邪馬台国論、縄文社会論とともに、スサノオ・大国主建国論についてブログなどで書き続けてきました。
 その結果、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』には誤りと不十分な点がでてきましたので、ここに誤りについてのみ修正し、読者のみなさまに報告いたします。
 主な修正点は「邪馬臺国(邪馬台国)から邪馬壹国へ」「ヤマタノオロチの草薙大刀」「大物主大神=スサノオ」「4人の襲名アマテルを合体した記紀の天照大御神」」「卑弥呼の王都・高天原の範囲」「邇岐志国生まれのニニギ」「箸墓=大物主・モモソヒメ夫婦墓」「大国主一族の祭祀拠点・纏向」です。
 これまでの邪馬台国論は畿内説の卑弥呼=アマテル説にせよ、九州説の邪馬台国東遷論にせよ、もっぱら邪馬台国と天皇家の建国との関係を追究してきましたが、この国の建国史を論じるなら記紀神話が認めているスサノオ・大国主7代の葦原中国(あしはらのなかつくに:豊葦原の水穂国)と魏書東夷伝倭人条などに書かれた百余国の「委奴国」の関係、葦原中国と邪馬壹国、さらに天皇家の建国の統一的な整理・把握こそ重要と考えます。
 本ブログの「邪馬台国論」としても、百余国の委奴国から30国が反乱・離脱して「相攻伐歴年」の後に邪馬壹国の女王・卑弥呼を共立して30国の連合国家が生まれたのであり、委奴国王の解明こそまず行われるべきなのです。
私は『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』において「委奴国(ふぃなのくに)」の王はスサノオ・大国主7代としましたが、邪馬台国論争の参考にしていただければ幸いです。雛元昌弘


□参考□
<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団〜卑弥呼の墓を掘ろう〜』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/
  ヒナフキンの邪馬台国ノー      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/
  ヒナフキンの縄文ノート       https://hinafkin.hatenablog.com/
オロチの大刀.JPG図1 出雲大社の元の立地場所.JPG図2 32代.JPG図3 古事記系図.JPG図4 高天原図.JPG図5 高天原(航空写真).JPG図6ニニギの天下り地図元.JPG図7 ニニギの天下り図.JPG図8 纏向遺跡の配置方向.JPG図9 穴師山へ向かう参道.JPG
posted by konanhina at 15:44| Comment(0) | 邪馬台国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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